3歳の頃から電力会社の配電線に興味があり、個人的に気になったものや変わったものなどを巡っています。 ※当サイト内の画像・文章の転載、複製、改変等は一切禁止します。もし発見した際は、警告のうえ、悪質な場合には法的措置をとる場合があります。 当サイトは、電力会社や機器メーカー等とは一切関係ありません。 Unauthorized copying and replication of the contents of this site, text and images are strictly prohibited.
2018年5月4日
1303.これぞ変わった格好!?w頭上大型D型腕金引き留めで、その下段は三相交流から単相交流の切り替えのごとし!
大型のD型腕金を使った上部引き留めもそう簡単には見かけない気がします。
ここでは上部に大型サイズのD型腕金を使い、その下段はやり出しで両引き留めとし、左側では単相交流の配電線になっているのが見て取れます。
(なお、こういった電源側、負荷側を意図した高圧用腕金の取り付け手法(頭上引き留め側が電源側の電線路となる、)は、昭和の頃に流行っていました。写真のものは近代的設備となりますが、高圧用腕金の取り付け方については、こちらも電源側、負荷側を意図した作りとなっていました。詳しくはこちらを参照下さい!)
反対側はこんな感じで!
将来、配電柱の裏に家ができた時のことを考えて、そうしたのだろうか?
1302.離隔でスペーサー付き配電線の分岐
本線に離隔腕金を使ったもので、分岐先の配電線にラインスペーサーを取り付けながらの分岐って
あまり見かけないような気が・・・
それもここは、スペーサーは単相交流で2本しか支持していません。
ところで、分岐先の高圧用腕金は離隔腕金のD部分についているようでした。
1301.配電柱としては激レアな鉄柱支持物!!
関西電力管内では今もなお、兵庫県の神戸には配電線の支持物に鉄柱を使った配電柱は古いものとして残りつつあるが、逆に東電管内では激レアな支持物となっており、鉄柱による支持物は全く見かけることはない。
(というより、元々関東の方では鉄柱の使用は少なく、鉄柱よりも木柱、もしくは電線の本数の多い街中では、早くて昭和14年(1939年)4月には、既に今の鉄筋コンクリート柱に取り替えてゆく話が持ち上がっていたようだ。(←東京電燈株式會社史 昭和31年12月20日発行を参考。)ところが、東京電燈株式會社開業50年史 昭和11年8月23日発行には、既に今の鉄筋コンクリート柱らしき支持物を使った配電柱の写真があるから、驚きである。(←これにより、一番早くて昭和11年には既出か?)まぁ、北海道の函館では既に、大正12年には現場打ちで組み立てた、角すい柱による鉄筋コンクリート柱があるぐらいですから、それもなんとなくわかる気はします。w)
なお、昭和初期の古い文献(配電法 電気教育研究会編 昭和6年4月廿日(20日) 3版発行)によれば、主に関西方面で、昭和初期にも普通に普及していたとの情報もある。そこには配電用三角鉄柱と題し、配電線の支持物に鉄柱を使ったものが紹介されていた。但し、都内でも普通にそういったものが普及していたのかどうかは不明である。
↑今回参考にした古い文献の外見↑
(かなりの絶版なので、国立国会図書館にてご覧あれ!w)
さて、それでは!今回は情報提供により発覚した、東電の配電線としてはレアな支持物と言えよう、配電鉄柱を紹介しよう!w
手前には
木柱といった古い支持物もある中!
東電の配電線では激レアな支持物と言えよう!鉄柱を使った支持物発見!
明治や大正時代といった大昔は、架空送電線路でも鉄柱を使った支持物が多くあったようだが、逆にいえば、今では架空配電線路用の支持物はかなりの激レアな分類に入るかと思われる。
高圧上部の腕金の配置については、2回線を支持できるかのごとく、古き時代によく確認できたハエタタキ形状をしていた。
なお、ここが偶然鉄柱になったのは、セメント工場で重機がよく稼働していることや、ここは川の横断箇所で配電線のスパンも長くなっているので、それなりの強度が必要となったことが関係しているのかと思われる。
基礎はこのような感じ。
珍しいので、再度横写真を!!
強度維持のためか、両側には支線が張られていた。
なお、この鉄柱の建柱年については、昭和37年(1962年)のようであった。
真横写真はこんな感じ!
鉄柱は鉄柱でも、少し左へややしなっているのが見て取れました。
高圧絶縁電線については、外部の情報によれば、十数年ほど前までは銅線だったようですが、今は近代的なアルミ線となっていました!
ただ、高圧耐張がいしはその銅線時代から未更新のようで古い!w
ストラップなどはしっかりと更新されているというのに、なんと、日本ガイシの旧ロゴが見えました。
最後は斜め反対側やより遠目から撮っておしまい!w
(というより、元々関東の方では鉄柱の使用は少なく、鉄柱よりも木柱、もしくは電線の本数の多い街中では、早くて昭和14年(1939年)4月には、既に今の鉄筋コンクリート柱に取り替えてゆく話が持ち上がっていたようだ。(←東京電燈株式會社史 昭和31年12月20日発行を参考。)ところが、東京電燈株式會社開業50年史 昭和11年8月23日発行には、既に今の鉄筋コンクリート柱らしき支持物を使った配電柱の写真があるから、驚きである。(←これにより、一番早くて昭和11年には既出か?)まぁ、北海道の函館では既に、大正12年には現場打ちで組み立てた、角すい柱による鉄筋コンクリート柱があるぐらいですから、それもなんとなくわかる気はします。w)
なお、昭和初期の古い文献(配電法 電気教育研究会編 昭和6年4月廿日(20日) 3版発行)によれば、主に関西方面で、昭和初期にも普通に普及していたとの情報もある。そこには配電用三角鉄柱と題し、配電線の支持物に鉄柱を使ったものが紹介されていた。但し、都内でも普通にそういったものが普及していたのかどうかは不明である。
↑今回参考にした古い文献の外見↑
(かなりの絶版なので、国立国会図書館にてご覧あれ!w)
さて、それでは!今回は情報提供により発覚した、東電の配電線としてはレアな支持物と言えよう、配電鉄柱を紹介しよう!w
手前には
木柱といった古い支持物もある中!
1本のコン柱を超えた先では!
東電の配電線では激レアな支持物と言えよう!鉄柱を使った支持物発見!
明治や大正時代といった大昔は、架空送電線路でも鉄柱を使った支持物が多くあったようだが、逆にいえば、今では架空配電線路用の支持物はかなりの激レアな分類に入るかと思われる。
高圧上部の腕金の配置については、2回線を支持できるかのごとく、古き時代によく確認できたハエタタキ形状をしていた。
なお、ここが偶然鉄柱になったのは、セメント工場で重機がよく稼働していることや、ここは川の横断箇所で配電線のスパンも長くなっているので、それなりの強度が必要となったことが関係しているのかと思われる。
基礎はこのような感じ。
珍しいので、再度横写真を!!
強度維持のためか、両側には支線が張られていた。
なお、この鉄柱の建柱年については、昭和37年(1962年)のようであった。
真横写真はこんな感じ!
鉄柱は鉄柱でも、少し左へややしなっているのが見て取れました。
ただ、高圧耐張がいしはその銅線時代から未更新のようで古い!w
ストラップなどはしっかりと更新されているというのに、なんと、日本ガイシの旧ロゴが見えました。
最後は斜め反対側やより遠目から撮っておしまい!w
1300.D+D+D
この日は小田急蛍田駅付近の撮影へ向かった。
特にこの辺には、東電の配電柱でレアな鉄柱仕様の配電柱があるという情報を最近頂いたので、そこを中心に巡ったのだった。w
そんな中、周辺では新種のものでこうした多少のレアものを発見w
それがこれである。
D型腕金なのだが、サイズがかなり大きくなっており、3つの普通サイズのD型腕金を合成させたかのような感じとなっている。
(新種で稀にあるらしいが、現時点ではそこまでの数は見かけていない。わずかながらに普及している程度である。)
おまけにここでは、低圧用腕金もそれに合わせるかのように長くなっているのが見てとれた。
なお、高圧の超特大サイズのD型腕金の製造年は2006年の模様。
(2006年の時点でこんなに長いタイプあったっけな?w見た覚えがない。)
最後に反対側はこんな感じで!
特にこの辺には、東電の配電柱でレアな鉄柱仕様の配電柱があるという情報を最近頂いたので、そこを中心に巡ったのだった。w
そんな中、周辺では新種のものでこうした多少のレアものを発見w
それがこれである。
D型腕金なのだが、サイズがかなり大きくなっており、3つの普通サイズのD型腕金を合成させたかのような感じとなっている。
(新種で稀にあるらしいが、現時点ではそこまでの数は見かけていない。わずかながらに普及している程度である。)
おまけにここでは、低圧用腕金もそれに合わせるかのように長くなっているのが見てとれた。
なお、高圧の超特大サイズのD型腕金の製造年は2006年の模様。
(2006年の時点でこんなに長いタイプあったっけな?w見た覚えがない。)
最後に反対側はこんな感じで!
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